日本銀行は、日本政府から独立した法人とされ、公的資本と民間資本により存立する。
資本金は1億円、そのうち政府が 55%の5500万円を出資し、残り45%に当る約4500万円
を政府以外の者が出資する。日本銀行法により日本政府の保有割合が55%を下回っては
ならない。
2015年(平27)3月末日時点における政府以外の出資者の内訳は、
個人40.1%、金融機関2.2%、公共団体等0.2%、証券会社0.0%、その他法人2.5%。
株式会社における株主総会にあたる 出資者で構成されるような機関は存在せず、
出資者は経営に関与することはでない。
役員選任権等の共益権はなく、一方自益権に相当する剰余金の配当は、払込出資金額
(1株の額面金額に相当、1口当り100円)に対し年5分(5%)以内に制限されている。
もし、日本銀行が解散を解散を決議した場合でも残余財産の分配は出資者にはなく、
日本銀行法によりすべての財産は国に帰属することになっている(第9章 第60条2項)。
国の行政機関ではないものの金融政策は 行政の範疇に属すると考えられ、物価の
長期的な安定はマクロ経済の観点から重要である。
日本銀行は(2019年現在唯一の)日本国債に関する証券集中保管機関(CSD)である
という性格も持つ。 社債、株式等の振替に関する法律第四十七条による主務大臣の指定
により同法上の「振替業(※国債に係るものに限る)を営む者」となっている。
1942年制定された旧日本銀行法では、
「 国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ルタメ 国家ノ政策ニ即シ 通貨ノ調節、金融ノ
調節及ビ信用制度ノ保持育成ニ任ズル 」、「専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営
セラシムル 」機関とされていた。
1872(明5) - 国立銀行条例制定
1876(明9) - 国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因と
なって インフレーションが進行。
1881(明14) - 三井銀行の為替方廃止、大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ
1882(明15) - 6月、日本銀行条例公布。10月10日に開業。
1884(明16) - 兌換銀行券条例制定、日本銀行を唯一の発券銀行として、銀行紙幣
を回収。一方、集権的な倉荷証券付手形割引制度を創設。倉庫商品の権利関係に
対する同証券の曖昧性を露呈。米穀投機と信用危機を誘発して破綻。
1885(明17) - 日本銀行兌換銀券発行、銀本位制を確立する。
1896(明29) - 日本で初めてのエレベータ(オーチス製)を日本銀行本店に取付
1905(明38) - 日露戦争中であるこの年12月4日から翌年4月2日にかけて、
しめて1160万ポンドをイングランド銀行へ貸し付けた。この後も貸付は
続き、1907年まで毎回50万ポンド単位で行われていた。巨額の外債を
発行する傍らでこのような貸付が行われた事実は、1907年恐慌の兆候が
いかに早く、また現金輸送が当時においていかに困難だったかを示唆する。
1931(昭6)- 金輸出再禁止にともない管理通貨制度を確立した。
1932(昭7)- 11月25日、新規国債2億円(4%利半国庫債券)の直接引受
12月24日から売りオペ。
1942(昭17)2月24日、日本銀行法(昭17法律第67号、以下「旧法」)公布
5月1日、旧法に基づく法人に改組。日本銀行条例、兌換銀行条例の廃止
1945(昭20)12月27日 - インドシナ銀行東京支店の業務・財産の管理人となる
1946(昭21)2月 - ハイパーインフレーションの懸念から、新円切替と一昨年に
続く預金封鎖が実施された。
1946(昭21)7月 17日、日本興業銀行の復興資金融通手形を担保。
22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。
31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金
がGHQ から日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、
香港上海銀行、チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ
国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金銀行がもっていた
管理権を日銀が継承した。
1947(昭22)3月15日 - 農地証券の交付および元利金支払に関する特別取扱に
関する件公布施行。
1949(昭24) 5月30日、東証一部に上場。同年6月には大証一部、名証一部
にも上場。11月1日、外国為替管理委員会から外国為替資金に関する
計算登記∧報告事務を引継いだ。又、3年前から置いていた山口事務所
を大晦日に廃止。
1950(昭25)6月7日 - 外資委員会の事務の取扱いに関する政令を公布、翌日施行
1952(昭27)6月16日 - 国際通貨基金へ出資する金塊15トンを政府へ売却。
1953(昭28)- 7月15日、金管理法。10月8日、世界銀行債200万ドルを
買い入れ。12月18日、連邦準備制度に口座開設
1955(昭30)4月15日 - イングランド銀行に口座開設
1959(昭34)9月11日 - 普通銀・長信・外為銀行を対象に準備預金制度始る。
1961(昭36)11月24日 - 外債2億USドルを外貨準備補強策として発行した
1962(昭37)10月1日 - 世銀債500万ドルを引受け。
1964年同月同日にも同額引受け。
1963(昭38)2月 - 店頭登録(現ジャスダック市場に公開)
1964(昭39) 11月25日、主要11中銀・国際決済銀行・合衆国輸出入銀行との
間に30億ドルのクレジット設定。12月4日、日本共同証券に特融。
翌年1月19日、日本証券保有組合にも特融決定。
1965(昭40)6月7日、山一証券に対する日銀特融第一回。同月中に5回
追加された。18日、日本証券金融に600億円までの公社債担保貸付
を決定。25日、市中銀行に対する貸出増加額規制の廃止を決定。
1968(昭43)3月18日 - 連邦準備制度とのスワップ取引額上限が10億ドルに増加。
1973年7月10日、倍の20億ドルとなる。1978年11月1日には50億ドルに達した。
1971(昭46)6月1日 - 外国為替資金特別会計の外国為替銀行に対する外貨預託
による輸入関係資金の供給を日本銀行の輸入資金貸付により行うようになる。
1973(昭48)4月9日 - 全国銀行データ通信システム稼動。
1982(昭57)10月8日 - 金融研究局を日本銀行金融研究所に改組
1985(昭60)1月25日 - シティバンク他2行と国債元利支払取扱店契約を締結
1988(昭63)8月15日 - 本支店間で日本銀行金融ネットワークシステム稼動
1990年5月28日、この日銀ネットによる国債関係事務の対外オンライン処理
を開始。さらに同年12月11日、長期国債の募集・引受・発行事務がオンライン化。
1992年5月26日に払込みオンライン化。
1994年4月11日、国債資金同時受渡(国債DVP)システム稼動。
1922(平4)4月1日 - 歳入等光学文字認識システムの処理対象官庁を拡大。
1994(平6)11月4日 - 東京証券取引所と当座預金取引を開始。
1997(平9)6月18日 - 旧法の全部を改正する日本銀行法(平成9年法律89号)
公布。翌年4月1日に施行。
11月日銀出身者が社長を務める徳陽シティ銀行が破綻。
2001(平13) - 1月4日、当座預金決済および国債決済を即時グロス決済化。
同年、量的金融緩和政策。
2002(平14) - ペイオフ (預金保護)解禁。金融機関保有株式の買入れ
2003(平15) - 自己資本比率8%割れ。史上2度目の赤字決算となる
2013(平25) - 9月に提出された野村証券とユーロクリアの主張を踏まえ、
10月にクリアストリームやゴールドマン・サックス、JPモルガン・チェース、
バークレイズ、シティバンク、及び国内のメガバンクと、日本国債の流動化
を協議。協議は同年8月9日の初回から2016年3月18日時点で第14回を数える
2016(平28) - 3月17-18日「決済システムフォーラム」開催。ブロックチェーンの可能性
について説明と議論が行われた。参加者:NTTデータ、国際銀行間通信協会、
経済産業省、IBM、農林中央金庫、野村総合研究所、ユーロクリア、国内の
メガバンク、さらに 翌月立上った ブロックチェーン推進協会や日本ブロックチェーン協会
のメンバーもいくつか含む。
2017(平29) - 9月6日、欧州中央銀行と共同調査している分散型台帳技術を
適用した資金決済システム(原題:Project Stella)に関する共同調査報告
を発表した。
1998(平10)年、日本銀行法の全面改正。
「物価の安定」と「金融システムの安定」という二つの日本銀行の目的が
明確に示された。政府(主として旧大蔵省の他、事実上旧通産省)からは
独立して運営されるようになって戦前の国家総動員・戦時立法色は払拭
されたが、日本国憲法第65条に反するのではないかという問題がしばしば
論じられるようになった。また、円を基礎とした国民経済の発展に資する
機関として経営政策全般の透明化が求められるようになった。
統制の問題はあるが、政府とは取引関係がある。日銀が保有する長期国債
の買戻し条件付売却、政府短期証券の引受、償還期限の到来した国債等の借換
のための引受である。本来、借換は累積債務を減らすために行うものであるが
(預金供託金庫を参照)、実態として借換が債務を増加させている。