明治維新150年の光と影(2) 2017 11.05 真鍋 厚

明治維新150年の光と影(2)  2017  11.05      真鍋 厚

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現場レベルでどんどん過激化

今年3月、「観光立国推進基本計画」が閣議決定された。これは2020年までに国内旅行消費額を21兆円、訪日外国人旅行者数を4000万人にするなどの目標を設定し、「世界が訪れたくなる日本」の実現に向けて政府全体で取り組む施策などを盛り込んだものだ。

同計画には、「国際競争力の高い魅力ある観光地域の形成」が必要とあり、「文化財・歴史的資源・自然等の観光資源としての活用」が明確に打ち出されている。その中でも神社仏閣はとりわけ重要な位置を占めるだろう。

東京では、浅草寺明治神宮が外国人観光客に大人気のスポット。東京近郊だと、日光東照宮鶴岡八幡宮長谷寺などが有名だ。また、文化財の宝庫である古都・京都、奈良になると、清水寺金閣寺平等院鳳凰堂東大寺法隆寺春日大社など、代表的なものだけでもかなりの数に上る。

そんなインバウンド消費のコア的存在として貴重な神社仏閣だが、今をさかのぼること150年前、近代日本の基礎を築いた先人たちは、あろうことか仏教と名が付く建築物や文化財をことごとく廃棄・処分する、空前絶後の「ヴァンダリズム(文化破壊運動)」を主導していた。これ自体は周知の事実だが、その実態について、詳しく知っている人は少ないのではないだろうか。

前回取り上げた浦上のカトリック信徒たちへの「流罪」処分の時期とほぼ並行して、明治政府は太政官布告、通称「神仏分離令」「神仏判然令」と呼ばれるものを発した。

これがいわゆる「廃仏毀釈」運動の火付け役となったのである。

近世宗教史を専門とする歴史学者の圭室文雄によれば、「神仏分離政策の目的の最大のものは、日本における国家公認の宗教を江戸時代の仏教から神道に転換させることであった。そのために、身分的には僧侶より神官の地位を引き上げる必要があり、一方では寺院の経済的基盤である寺領を削減し、檀家制度にかかわる神社を中心とする氏子制度を作り、寺と檀家との関係を断ち切ることであった」という。

明治政府は、もとより仏教そのものの排斥を狙っていたわけではなかった。神社から仏教色を一掃して「神仏習合」の慣習を禁止し、神社を天皇と国民をつなぐ中継地にすることが、明治政府の意図だった。

しかし、このような当初の意図を超えて、寺請制度のもとで江戸幕府に仕える立場だった寺院に反感を持つ地方の神官や、国学者などが扇動し、過激な「廃仏毀釈」運動へと発展していった。

地域ごとに多少の温度差やタイムラグ(地方によっては幕末期から活発化している)はあったものの、明治政府の号令を受けて全国で寺院や仏像・経巻などの仏具の破壊が次々と行われ、多くの寺院が廃寺・合寺の憂き目に遭い、短期間の間に膨大な数の文化遺産が消滅したのであった。同時に僧侶の還俗も進められ、生活に困窮する関係者が続出した。

仏像の顔面に弓を射込んだ

天台宗総本山、比叡山延暦寺鎮守神であった日吉山王社(現日吉大社滋賀県大津市)のケースを取り上げよう。

ここでは、諸国の神官出身の「志士」たちからなる武装した一隊が、大津裁判所から伝達されている明治政府の「御趣意」に従え、と寺院側に詰め寄った。

何回かのやりとりのあと、押しかけた一隊は実力行使にでて、神域内に乱入して土足で神殿にのぼり、錠をこじあけ、神体として安置されていた仏像や、仏具・経巻の類をとりだして散々に破壊し、積みあげて焼き捨てた。

仏像にかえて、「真榊(まさかき)」と称する金属製の「古物」がもちこまれて、あたらしく神体に定められた。日吉社は、本殿のほか二宮社以下七社からなりたっていたが、同様の処置は七社のすべてにたいしてもなされた。焼き捨てられた仏像・仏具・経巻などは一二四点、ほかに金具の類四十八点が奪いさられた、と報告されている。

そのなかには、大般若経六百巻が一点に数えられている例もあり、五十人の人足を動員しての半日余の作業だったことも考慮すると、全体としてはきわめて厖大な破壊行為がなされたことになる。

また、この時、一隊の指導者は、仏像の顔面に弓を引いて命中させ、大いに快哉を叫んだという。

だが、そもそもの無理は、千年以上の歴史を持つ「神仏習合」の文化を、「神」と「仏」に切り分けてしまおうとすること自体にあった。土着と外来の信仰が解きほぐせないほどに混淆したものにメスを入れれば、「流血」は避けられない。

鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)は、自ら廃仏という「外科手術」を施し、寺院から神社に生まれ変わった。

鶴岡八幡宮は元々「鶴岡八幡宮寺」と称する「神仏習合」の神宮寺であり、江戸幕府の庇護の下、現在の数倍の規模を擁する一大神社・寺院地帯を形成してきた。

しかし、明治元年八幡大菩薩が明治政府により廃止され、「廃仏毀釈」がいよいよ本格化すると、社僧は神主に鞍替えして、「僧尼不浄の輩、入るべからず」という掲示を立て、薬師如来が安置してある本地堂、愛染堂、神楽堂、六角堂などの主な仏堂を解体、古材木として売り払ってしまった。仏像や仏具なども破壊したり、焼却したりしたという。

奈良・京都でも…

古都・奈良ももちろん無傷では済まされなかった。明治4年、法相宗大本山である興福寺奈良県奈良市)は寺領を没収され、僧侶は春日神社の神職にさせられ、廃寺同然となった。その後、築地塀の東面・南面が撤去、同6年には一乗院東方の三蔵も破壊され、仏像や経典が焼却された。さらに、明治7年には食堂・細殿も解体され、事実上の壊滅状態となった。

同8年、西大寺住職が管理の任に就いて以降も、興福寺では仏像や経典・古文書など文化財の焼却や流出が相次いだ。三重塔は30円、五重塔は250円で売りにだされたという(*3)。興福寺の修復には、同14年の再興の許可を待たねばならなかった。

また京都では、祇園社が八坂神社に改称、北野天満宮が北野神社に改称、石清水八幡宮が男山八幡宮に改称させられた。奈良と同じく寺領や文化財の消失に多くの寺院が悲鳴を上げた。

これらはほんの一端に過ぎない。

例えば、各地の廃寺となった寺の数を知るだけでもその苛烈さが分かる。富山藩では、1600か寺以上あった寺院が6か寺にまで激減。薩摩藩でも1000か寺以上あった寺院が明治7年には全廃となり、藩内には一つの寺院も存在しなくなった。まさに「おどろくべき暴挙」(圭室文雄*1)であった。

当時の全国にあった寺院の約半数が廃寺と化し、途方もない数の文化財が廃棄・破壊され、果ては売買されたと伝えられているが、今もなおその正確な実態は掴めていない。

2001年にアフガニスタンイスラーム主義組織「ターリバーン」が偶像崇拝禁止を掲げて、バーミヤン仏教遺跡群の石像を破壊すると世界中から非難の声が上がった。その際、日本政府は修復のための基金を設立し、最終的に3億円以上を拠出した。

だが、皮肉なことに、近代日本の夜明けを告げた明治政府は、「ターリバーン」など比較にならない規模の「ヴァンダリズム」(文化破壊運動)を容認していたことを、日本人として記憶に留めておくべきだろう。

後年、薩長出身者以外で初の内閣総理大臣となった大隈重信が回顧している通り、「寺を燃やしたり、仏像を壊しても、最初は別段注意することもなかった。これが事実である」

明治天皇の知られざる後悔

そして忘れてはならないのは、この暴挙が宮中にも及んだことだ。

歴代の天皇用明天皇の時代以後)は熱心な仏教徒で、江戸時代までは即位礼を含む主な宮中行事はすべて仏式だった。皇室と仏教は1400年以上にわたって密接な関係を育んできたのである。

京都東山の泉涌寺の霊明殿には、天智天皇光仁天皇以後の歴代天皇皇后の位牌が置かれている。だが、これらの事実を明治政府は徹底的に無視した。

明治天皇はこんな重い言葉を残している。

明治天皇崩御されるとき、「朕が一生に於いて心残りのことは、即位式を仏教の大元師の法によって出来なかったことである」と仰せられたということは、天皇の御心情として察するに余りあるものがあります。(『松島善海師談』)

つまり、「廃仏毀釈」運動に象徴される神道の国教化政策とは、あえて乱暴な言い方をすれば、天皇から国民の一人ひとりに至るまでの事実上の強制改宗であったのだ。

しかも、最高神である天照大神を頂く神道に奉ずることを絶対化することによって、それ以外のものを「国法に背くもの」「価値のないもの」として排斥するという、多神教的な日本の風土にそぐわない一元的な「排除」の思想に先鋭化したのである。この自らの意に反して信仰生活との紐帯が破壊される衝撃は、天皇も国民も同様であったと思われる。

結局のところ、前回取り上げたキリスト教排斥の動きともリンクする、明治政府の極端な臣民化政策は、日本を数百万人もの犠牲をもたらす敗戦にまで追い込む熱狂の遠因となった。

この過ちから謙虚に学ぶ姿勢こそ、未来に残すべき「明治維新の遺産」ではないだろうか。