信仰とは何か?

「 誠心誠意、何事かを頼めば、神は その願いをかなえてくれる 」

という思想を、太古以来 今日まで 我々人類はもっている。

つまり、そのような神秘的な存在なしには、

自分の人生も その社会もない、と考えてきたのである。

  (人間の社会は 信仰(宗教)共同体なのである)

 

その神は、その地・その時代で 様々な相をとった*¹。

そして、今日 これは 人間知性にまでなった*²のである。

 

  *¹ 古代エジプトでは、7月末 ナイルの洪水が起きる頃、東天の地平線に

   太陽が姿を現す直前、全天で一番明るい星・シリウス豊穣の女神ソプデト)

   が輝き、日光と交じり合いながらイシス(ソプデト)神殿の中に差し込んだ。

          シリウスは「ナイルの星」「イシスの星」と呼ばれる。

    日本や朝鮮半島では、石祠の真東に窓を穿ち、

   春分の日(太陽が真東から昇る日)、そこから入ってきた日の光が

   石室内を照らし出す施設を作ったり、その後、仏教が伝えられると、

   室の奥に東向きの仏像を安置し、日光がそのお顔を照らすといった

   施設を作ったり・・・。

  *² 近代以降の現文明では、いわゆるキリスト教の神は死んで、

   人間知性が神となったのである。それが 科学・技術崇拝である。

   温暖化&CO₂原因説も 現文明の神・「科学」の名で唱えられており、

   別の神(超越者)によって この説が否定されることを予想していない。

 

この「何事かを頼む」、「何かを欲する・願う」というところに、

我々人類の あらゆる活動(営み)の源がある。

これで、我々は 歴史を かくかくのものとして造り出してきたのだ。

 

この欲・この願いを 罪悪だと感ずることは ふつうなく、

その欲を満たそうとした結果の苦を   トコトン 嘗め尽くして、

ようやく、我々は 欲の罪悪性を感ずるようになるのだろう。

 

しかし、 ある状態を苦と感ずる or 認めることも、

そこで 七転八倒している自身を認識するということも、

我々 凡夫においては その認識に個人差がある。

 

貧困を苦と感ずる者も、まったく感じない者もあるように、また

金殿玉楼の酒池肉林を悦楽とする者も、苦悩とする者もいる・・。

 

このように、ある事を 苦悩と感ずるか 逸楽と感ずるかは、

人それぞれだということは、いかんともしがたいことなのだ。

何故であろうか? 

――― 我々は(私は)  凡夫であって、仏ではないからである。

 

の根本的問題”を認識し、その解決を提示できる人間は、

一人もいないし、かって一人もいなかった*³ 

――― ということが重要である。

この認識こそ 我々の あらゆる幻想*⁴を剥取るものなのである。

 

   *³ これが、天上天下唯我独尊というものであろう。

        *⁴この幻想が、いわゆる 神or神々であり、また仏であろう。

     釈迦は 王子として城に中にいた時は、この幻想のなかにいたが、

     やがて王となるべき彼の役割を捨てて出家した時、同時に

     釈迦族の神々をも捨てたのである。

     それは、彼が 誰一人頼ることのできない釈迦自身の

     「存在の根本的問題」に真向きになったということを示しているのだ。

 

                         合掌